ぎゅっぎゅっ、な毎日?

『ぎゅっぎゅっして!ゆっくりがんばる成長日記』(http://let-me-pick-you-up.hatenablog.com/)から派生した今現在の我が家の日記です。

きっと来るいつかの為に。

今日はブログを始めた頃からいつか必ず書きたいと思っていた事を書き残させて下さい。但し少し暗い内容になるかもしれませんし、かなりの長文になると思います。これは直接息子に関係ない事ですのでご興味のない方はスルーしていただけると幸いです。

 

 

先立つ準備

 先日の記事(生クリームが苦手だった私)では大変お恥ずかしいのですが母のスパルタな躾をお話しさせていただきました。でも実はこのかなり厳しい躾には理由があったのです。今日はそこから学んだ事を記録させて下さい。

 

母は私や弟が未就学の頃から頻発する頭痛に悩まされておりました。その痛みは鎮痛剤を飲んでも全く効かない程の痛みだったそうです。方々の病院でいくつも検査いただいたそうですが当時の技術では病変が見つからず、結局疲れだとかストレスという事で安静に過ごす様に指示されるだけでした。

しかし痛みは時に耐え難く、母はいつも苦痛を浮かべた形相をしていました。そういえば寝込む事だって良くありました。

そんな調子でしたので、今になって振り返ってみると私たち姉弟の躾は専ら一方的に叱られるという方法(しかも強い口調で一喝される事もしばしば)でした。子どもの気持ちに寄り添うとか辛い気持ちを共感したり時には諭したり慰めたりといった方法で接せられた記憶はありません。

きっとそれだけ毎日辛かったのだろうと思います。

 

しかしその間であっても母は厳しかったですけれどしっかりと家事全般を教えてくれました。特に私は女の子という事もあり、料理は小学生低学年の頃から教えてくれていたので高学年の頃には家族全員分の朝食や夕食を作っていました。

当時遊びたい盛りだった私は

「お母さん、私にばっかり手伝わせてずるいよ。弟は何も手伝ってないじゃん。」

と反論する事もありましたが、

「弟はいいのよ、男の子だから。男の子だとそれなりに手に職つければ何とか食べていけるでしょ?あなたは料理だけでも覚えておくときっと役に立つと思うから教えているのよ。」

とお手伝いをさせる理由を教えてくれた事がありましたネ。

 

 

結局母の頭痛は激痛の強い時期や何とか耐えられる落ち着いた時期を繰り返しながら15年程経過した頃、やっと病巣が見つかりました。グリオーマという脳腫瘍でした。病巣が見つかりにくかったのは薄く平たく広がっていたらしく当時のCTやMRIでは捉えられなかったのだろうとの事でした。無事最初の手術を終えた当時、私は19歳になっていました。ほとんど躾を終えた頃、という事になりますね。

 

でも母にしてみれば今更というか『やっぱりあったかぁ』という心境だった様です。だって自分の身に大変な病変がある事をずっとわかっていたから。実は母、元看護師だったのです。だからこの只ならぬ痛みは・・・おそらく完治しない類のものだろう・・・と。

ただ見つからないだけなのだと覚悟していたからこそいつ死んでも構わない様に私たち姉弟に必要以上に厳しく、その分だけ親子間よりも姉弟間の方が仲良くなる様に仕向けた様でした。自分が死んでも姉弟で仲良く支え合って欲しいと願い、そして各々には出来るだけ早く色々な技術や知識を伝えておこうと考えていたのでしょう。

 

母の口から後日談

その後、私が無事大学を卒業し就労で実家から独立して以後、たまに実家に帰ると母が私や弟を育ててきた時の心境をいくつか話してくれる様になりました。その中でもとても印象に残っている話がありました。

「とにかく育てるのに必死だった。私の実家は遠く親に頼れない育児の中でいつも頭がガンガンと割れる様に痛くて、あなた達が悪い事をしたら叱ってやめさせるしかなかった。大変だったのよ。」

と。

 

つまり育児とは誰かの助けが必要で、しかも自分の体が元気でなければなかなか思う通りには出来ないものなんだなぁ・・・とこの時思いましたね。

 

それから、

「でもね、こうしてあなたが一人で生きていく事が出来る様になってくれてホッとしているのよ。」

とも言っていました。

 

私も親になり、今になってこの”一人で生きていく事が出来る様になってくれてホッとしている”という意味が良くわかるんです。

 

 

真の自立を目指して

発達障がいで中程度の自閉度がある息子ですが、おそらく成長すれば定型の方々と同じ様な環境へ就労するなどして社会へ出ていく事になるかな?と思いますし、そうなればいいなと思い今精一杯自分に出来る事を彼に与えているつもりです。

 

でも・・・いつまでもこの子の手をひいてはやれない。いつか私や夫は息子を置いて旅立たなくちゃいけない日がくるでしょう。そう、あの日の私の母の様にです。

 

欲を言えば、出来れば息子には私が元気なうちに自分の目指す世界へ飛び出して欲しいなぁと思っています。もし頑張りすぎて疲れてしまった時はしばらくの間はこの家で待っていてやりたいですから。そしてもっともっと欲を言えば孫のお世話くらいしてから旅立てればいいなぁ~なんて。(要は私がコツコツ書き溜めているメインとこのサブブログを息子が読まなくても良い状態である事を望みます。)

 

きっとこの辺りの心情は多くの親御さんの思いと同じですよね。

 

その為には、私たち家族じゃなくちゃ信用出来ないというのでは非常にマズくてですね、例えば保育園や幼稚園、或いは学校の先生と親しい関係を築けたり誰か一人で構わないので友人関係を築いていく経験を少しづつ積み重ねていって欲しいと思っています。私たちがいなくても同じ思いの人達と幸せに生きていける子になってくれたら・・・というのが私の願いです。

 

そうした経緯もあって、今年は息子がしっかりと学校に通えている事に安堵していますし、私も先生方に甘えてばかりおらず、しっかりとこの子の自立に向けて課題をクリアしていける様にまた頑張ろうと思っています。

 

ちなみに私の母は弟が幼稚園の頃に強い激痛に見舞われたらしく、どうもその際に死を覚悟したそうです。その時の事を振り返って

「あなたはしっかりしてたからお母さんがいなくても大丈夫だろうと思えたけど、弟はまだまだお父さん一人じゃ無理だと思ったわ。仕方がないから良く懐いている幼稚園の担任の先生に全てをお願いしようと本気で思っていたわよ(笑)。」

なんて思ったそうです。

 

私は古典文学が好きなのであちこちでちょくちょく引用してしまいますが、幼くして親を失う心境としては有名な伊勢物語のシーンを思い出します。その時の在原業平の言葉を借りますと、

『世の中に去らぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため』

(世の中に避けられない別れ(=死別)などなければ良いのに・・・ 千年も生きて欲しいと祈る子の為に。)

※高校生の時に覚えたっきりなので間違っていたらお許しを<(_ _*)>

 

母が他界した当時、私は既に成人しておりましたので業平よりは随分マシな境遇ではありましたが、それでもやはり業平と同じ様な思いに駆られ『自分の寿命を5年あげるから母にあと1年分け与えて下さい』と何度も何度も願ったのでした。結局願いは叶わず・・・当時の心痛は筆舌に尽くしがたく回復するのに何年もかかってしまいました。

あんなに厳しかった母でもやはり私にとって大切な存在であったという事なのです。今でももし生きてくれていたら息子の成長を真っ先に楽しんでくれていたのではないでしょうか。

 

 

だから今はまだ・・・息子に私と同じ思いをさせたくはないですので私も夫もまだまだ頑張らなくちゃいけませんね。そしてそれと同時に母が教えてくれた様に誰かと助け合いながらも自立して生きていける術を一つ一つ丁寧に教えていきたいな・・・、というのが私の育児の根底にある事なのでした。