一番古い記憶(私の回顧録)
今日は探し物クイズからはじめてみたいと思います。
下の写真に四つ葉のクローバーが2つあります。
別に目の運動などのつもりではないのですが、たまに気分転換もいいかな?と思いまして。良かったら探してみてくださいネ。(答え合わせは後ほどです)
(私の)他害のキモチ
今日は私自身の振り返り記事を書かせて下さいね。
この記事を以前のブログに書いた頃、息子は当時4歳を少し過ぎた頃で、幼稚園で他害とまでは言いませんが少し他人を脅かすそぶりを見せ始めた事があったんですね。
そんな息子の様子への対応に悩んだ時に、私自身の幼少期を思い出して対応を考えるヒントにした事がありました。
その時の記事をリメイクしてUPさせていただこうと思います。
そのころの息子と言えば、幼稚園生活の中で周囲に誰かがいる事に気付き始めた時期。
他人に何かを伝える機会が増えたからでしょうね、たくさんおしゃべりをしてくれる様にはなっていったんです。
ただ、そんな中にも気になる点が・・・。
他害の始まりと時を同じくして息子の助詞の使い方が微妙な部分がある事に気付き始めたのでした。(特に使役の助詞)
本人からどんな事があって相手を排除しようとしたのかを問いただしても「誰が」や「誰を」といった部分への理解が曖昧で、本人の説明と先生からお聞きしている状況とは真逆の捉え方だったりするのです。。。
(結局他害自体は「自分がされたら嫌だから」という理由で叩く事はなかった様ですので、ホッと胸をなでおろしたのでしたが、助詞の使い方は就学頃まで悩み続ける事になりました。)
こんな調子でしたから、本人からの聞き取りも大切にしながらも、息子自身の気持ちになって考えてみたくなって、自分自身の子どもの頃の記憶を辿る事にしたんです。
って、普段は偉そうにこんなブログを書かせていただいている私ですが、今日の内容は昔の私の他害の記憶です。(お恥ずかしながらそんな事をした事もあったのです。)
本当は恥ずかしくて書きたくないのですが、こうした記憶が子どもの心に迫る気付きになればと思い記録に残させていただきますね。
といいましてもダークな表現の部分もございますので、苦手な方はスルーして下さい。
一番古い記憶―弟が生まれた事
私の一番古い記憶は・・・1歳11ヶ月の記憶という事になります。
祖父母の家で父から「弟が産まれたよ!」と聞いた時、小躍りして
「○○ちゃん(←自分の名前)*1の赤ちゃん、○○ちゃんの赤ちゃん!」
とヒラヒラ踊って喜んだ記憶があります。
それまでに「赤ちゃんって何?」と聞くと、「お友達みたいなものだよ。」と父に聞いていたものですから、『弟が生まれたら毎日遊べる、お友達と遊べるんだー!』と思い込んでいたのでとても嬉しかったのです。
・・・
でもそんな嬉しい気持ちはすぐに薄らいでいきます。
当たり前ですが、弟は赤ちゃんでしたから(笑)弟が生まれた現実の日々は、私が思い描いた楽しくお友達遊びが出来る毎日とは程遠くかけ離れていたのでした。
そんな弟と一緒に遊び始めたのは弟が1歳を過ぎた頃でしょうか。
といってもまだ本格的には遊べない弟とそのお世話に必死な母親とは当時少し距離を置いていました。
「忙しいから外で遊んできなさい」と母親に言われ、そーっと家を出る日々でした。3歳頃の事です。
当時はまだ子どもがたくさんいた時代です。
外に出ると必ず誰か同じ年齢のお友達がいました。(同じ様な境遇のお友達がたくさんいた、という事の裏返しでもあります(笑))
幸いにもお向かいさんやご近所に同じ年齢のお友達がたくさんいましたのでその子達と家の前で遊ぶ毎日でした。
住宅街で日中は車の通りも全くなく、ご近所のお母さん方は3歳過ぎの子どもであれば同じ様に子どもだけで外で遊ばせていました。現代では考えられないくらい大らかです。
(といっても順番制の様な暗黙の了解があったらしく、誰かしらのお母さんが数人立ち話をしていて近所の子ども達を見守ってくれていました。郵便屋さん等のバイクがくると注意してくれたりと、そういった役割の方がいたからこそのびのび遊べたのです。そういえば私の母親もたまにそうして外で見てくれていました。)
ちょうどその頃、お友達同士でこんな遊びが流行りました。
「私3歳!」
「ボクも3歳!」と順に言い合うのです。
そして私の番が来るのですが、内心は
『全員同じ歳なんだから3歳に決まっているのに・・・』と思いながらも
「私も3歳・・・」と小さくつぶやく自分がいました。
同じ年齢でも少し月齢が早かった為か、同い年のお友達とのこうしたただ言い合うだけの遊びに発展性がない事がつまらなく感じ、その辺りから年上のご近所のお姉ちゃん達に遊んでもらう様になりました。*2
このお姉ちゃんたちに着せ替え遊びやごっこ遊びをたくさん教えてもらい、こうした遊びを通じて「こう言われたらこう返事する。」といった社会性ややり取りを教えてもらいました。
今の時代ではそうした交流のチャンスが減っているのかもしれませんが、私自身はお姉さん達の仲間に入れてもらえた事で少し大人びた気分になれた事や、やり取りの遊びが楽しくて仕方ない毎日でした。
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そうこうしている間に弟が2歳を過ぎ、
ようやく毎日楽しく一緒に遊べる様になりました(笑)
私は遊びが大好きでしたので、表面上は弟と毎日キャッキャ言いながら楽しく暮らしていました。
でもそれまでの間の母親や弟に対する不満がずーーーーーーーっと心の奥深い所にあったのです。もっと甘えたい気持ちや、母親の手を独占する弟に対する不満です。
4歳のある日、それが爆発しました(笑)
弟に手を出す
ある日、弟と2人で布団に入ろうという頃…
弟が何か機嫌を損ねて私に癇癪を向け始めました。理由も思い出せない様な他愛もない事だったと思います*3。(というか単に眠かったんでしょうね^^;)
弟の癇癪を私が受け止めなければいけない事に耐えられず、自分の中で何かがプチっと切れたのを覚えています。
それまでの何年かの鬱憤がとうとう溢れ出してしまったのです。。。いくら近所のお姉ちゃん達が優しくしてくれたからといって、それと母親からの愛情とはまた別物だったのです。
”弟を泣かせてやりたい、一撃で必ず弟を懲らしめてやる”という思いから、何を血迷ったのか弟の顔の一部を叩いてしまいました。
(うわーーー、ダークな表現ですみません・・・。)
もちろん弟は非常に激しく泣きました。
すぐに母親は駆けつけ、事情を問いただしましたがすぐに理解したのか弟の手当てとなだめるだけで私を責めませんでした。
母からかけられた言葉は「もう4歳のおねえちゃんなのに・・・。」という言葉だけでした。
”弟は幼いのだから、癇癪を起こしても仕方ない・・・”と内心はわかっていたので、攻撃する時に躊躇といいますか、加減をしたので幸いにも弟は目を閉じた状態で大事には至りませんでした。
(・・・全然幸いじゃないんですけれどもね。)
弟にケガがない事を確認した上で私達を寝かしつけた母親でしたが、翌日も私を責めませんでした。しかし責められなかった事で、私はかえって事の深刻さを私自身で理解する事になりました。
母親にしてみればずっと弟にばかり手をかけざるを得なかった事で私の不満は理解していた様です。
だからあえて私を責めなかった。
他人を傷つける事はいけない事といつも口すっぱく繰り返して来た母親。
普段ならかなり厳しく叱りつける人でしたので、今回はどんなに怒られるのだろうとある意味期待していたのですが予想が外れました。(怒られても良いから少し構って欲しかった気持ちもありました。)
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母親に責められなかった事で、私は逆に自分自身を強く責めました。
そして『他人を暴力で傷つける事は絶対にしてはいけない事』なんだと悟りました。
こうして私は弟に一生謝り続けなければいけない気持ちを心に抱える事に。これ以来、私は弟をとても大事にする様になりました。
その後しばらくはビクビクしていた弟も、気付けばいつも
「おねえちゃん、おねえちゃん!」と良く懐いてくれ、いつも仲良しの姉弟と周囲から言われる様になりました。
この私の経験から、他害はいけない事なのですがその時に
・悪意があるかどうか?
・ただ相手に来てほしくない時に嫌だと言葉で言えずに手で押し返しただけなのか?
・”もし手ではなく言葉で伝えるならどんな感情だったのか?”
他害をするまでに至った気持ちを大人側が見抜ける様になれば改善の手立ても早く見つかるのではないかな?と思ったりしています。
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余談ですが、母が他界した後にいつも思う事は、
”お母さん、素敵なプレゼントを私に残してくれてありがとう”という気持ちです。
なぜなら、弟は母が残してくれた一番の宝物だからです。
(しかし母、まだ2歳の弟を姉と二人で寝かせるのは少しスパルタ過ぎやしないだろうか・・・?)
ではでは四葉のクローバーの正解の発表です(←そんな大げさな・・・^_^;)
写真の上の方と下の方にありました♪
楽しんでいただけたら幸いです(*^^*)