ぎゅっぎゅっ、な毎日?

『ぎゅっぎゅっして!ゆっくりがんばる成長日記』(http://let-me-pick-you-up.hatenablog.com/)から派生した今現在の我が家の日記です。

いくつかの再挑戦(足指の変形編)

おかげ様で学校に楽しく通えている息子くん。

(困難な事は色々あるとは思いますが、これ以上ない程手を尽くしていただいておりますのできっと大丈夫。)

 

そこで少し状態が安定するまで避けてきた家庭内での取り組みにいくつか挑戦中です。

真っ先に取り組んだのは以下4つ。

(1)足の指の変形

(2)発達障がいの子どもを受け入れてくれる歯科探し

(3)原始反射残存の見極めと対応

(4)書字の訓練

 

 

長くなりそうなので一記事に一つづつ書かせて下さいね。

 

(1)足の指の変形

この件は以前↓過去記事でご紹介させていただいたのですが、

好きな靴に執着しすぎて足指が変形してきてしまった、という内容のお話しをさせていただきました。

でも本当にそれだけかなぁ・・・と思うに至り指の変形の原因を突き止めようと模索しています。

 

 

最初に整形外科でレントゲン撮影をしていただいたのですが、腫瘍などはなく成長中にはよくある事かなぁ・・・という事でした。

「このまま様子をみて、もう少し聞き分けが良くなったらテーピングなんかで固定してあげてみて?」

との事。

しかしあまり待ってはいられません。やはり体重が増えるにつれ痛みがどんどん増していく様子でした。

 

 

そこでテーピングでの固定を2週間程試みました。

・・・確かに痛みは緩和される様です。しかし変形自体はあまり変化がない様子でした。

 

・・ 

・・・う~ん・・・なんか違う。

もっとこう、何ていうか・・・要はボディパーツの使い方なんですよね(^^;)

 

そこで足の指で毛糸を掴む遊びなどを取り入れて自分の体の限界を確かめさせたり

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もう少し地面を掴む感覚がありそうな靴に変えてみたりしています。

 

心なしか指の曲がりが少し穏やかになった様な気もしますし、本人が感じる痛みも楽になってきた様です。

 

 

(日々が落ち着き指示通りが良くなると色々な改善もしやすくなる事を実感中です。)

 

 

きっと来るいつかの為に。

今日はブログを始めた頃からいつか必ず書きたいと思っていた事を書き残させて下さい。但し少し暗い内容になるかもしれませんし、かなりの長文になると思います。これは直接息子に関係ない事ですのでご興味のない方はスルーしていただけると幸いです。

 

 

先立つ準備

 先日の記事(生クリームが苦手だった私)では大変お恥ずかしいのですが母のスパルタな躾をお話しさせていただきました。でも実はこのかなり厳しい躾には理由があったのです。今日はそこから学んだ事を記録させて下さい。

 

母は私や弟が未就学の頃から頻発する頭痛に悩まされておりました。その痛みは鎮痛剤を飲んでも全く効かない程の痛みだったそうです。方々の病院でいくつも検査いただいたそうですが当時の技術では病変が見つからず、結局疲れだとかストレスという事で安静に過ごす様に指示されるだけでした。

しかし痛みは時に耐え難く、母はいつも苦痛を浮かべた形相をしていました。そういえば寝込む事だって良くありました。

そんな調子でしたので、今になって振り返ってみると私たち姉弟の躾は専ら一方的に叱られるという方法(しかも強い口調で一喝される事もしばしば)でした。子どもの気持ちに寄り添うとか辛い気持ちを共感したり時には諭したり慰めたりといった方法で接せられた記憶はありません。

きっとそれだけ毎日辛かったのだろうと思います。

 

しかしその間であっても母は厳しかったですけれどしっかりと家事全般を教えてくれました。特に私は女の子という事もあり、料理は小学生低学年の頃から教えてくれていたので高学年の頃には家族全員分の朝食や夕食を作っていました。

当時遊びたい盛りだった私は

「お母さん、私にばっかり手伝わせてずるいよ。弟は何も手伝ってないじゃん。」

と反論する事もありましたが、

「弟はいいのよ、男の子だから。男の子だとそれなりに手に職つければ何とか食べていけるでしょ?あなたは料理だけでも覚えておくときっと役に立つと思うから教えているのよ。」

とお手伝いをさせる理由を教えてくれた事がありましたネ。

 

 

結局母の頭痛は激痛の強い時期や何とか耐えられる落ち着いた時期を繰り返しながら15年程経過した頃、やっと病巣が見つかりました。グリオーマという脳腫瘍でした。病巣が見つかりにくかったのは薄く平たく広がっていたらしく当時のCTやMRIでは捉えられなかったのだろうとの事でした。無事最初の手術を終えた当時、私は19歳になっていました。ほとんど躾を終えた頃、という事になりますね。

 

でも母にしてみれば今更というか『やっぱりあったかぁ』という心境だった様です。だって自分の身に大変な病変がある事をずっとわかっていたから。実は母、元看護師だったのです。だからこの只ならぬ痛みは・・・おそらく完治しない類のものだろう・・・と。

ただ見つからないだけなのだと覚悟していたからこそいつ死んでも構わない様に私たち姉弟に必要以上に厳しく、その分だけ親子間よりも姉弟間の方が仲良くなる様に仕向けた様でした。自分が死んでも姉弟で仲良く支え合って欲しいと願い、そして各々には出来るだけ早く色々な技術や知識を伝えておこうと考えていたのでしょう。

 

母の口から後日談

その後、私が無事大学を卒業し就労で実家から独立して以後、たまに実家に帰ると母が私や弟を育ててきた時の心境をいくつか話してくれる様になりました。その中でもとても印象に残っている話がありました。

「とにかく育てるのに必死だった。私の実家は遠く親に頼れない育児の中でいつも頭がガンガンと割れる様に痛くて、あなた達が悪い事をしたら叱ってやめさせるしかなかった。大変だったのよ。」

と。

 

つまり育児とは誰かの助けが必要で、しかも自分の体が元気でなければなかなか思う通りには出来ないものなんだなぁ・・・とこの時思いましたね。

 

それから、

「でもね、こうしてあなたが一人で生きていく事が出来る様になってくれてホッとしているのよ。」

とも言っていました。

 

私も親になり、今になってこの”一人で生きていく事が出来る様になってくれてホッとしている”という意味が良くわかるんです。

 

 

真の自立を目指して

発達障がいで中程度の自閉度がある息子ですが、おそらく成長すれば定型の方々と同じ様な環境へ就労するなどして社会へ出ていく事になるかな?と思いますし、そうなればいいなと思い今精一杯自分に出来る事を彼に与えているつもりです。

 

でも・・・いつまでもこの子の手をひいてはやれない。いつか私や夫は息子を置いて旅立たなくちゃいけない日がくるでしょう。そう、あの日の私の母の様にです。

 

欲を言えば、出来れば息子には私が元気なうちに自分の目指す世界へ飛び出して欲しいなぁと思っています。もし頑張りすぎて疲れてしまった時はしばらくの間はこの家で待っていてやりたいですから。そしてもっともっと欲を言えば孫のお世話くらいしてから旅立てればいいなぁ~なんて。(要は私がコツコツ書き溜めているメインとこのサブブログを息子が読まなくても良い状態である事を望みます。)

 

きっとこの辺りの心情は多くの親御さんの思いと同じですよね。

 

その為には、私たち家族じゃなくちゃ信用出来ないというのでは非常にマズくてですね、例えば保育園や幼稚園、或いは学校の先生と親しい関係を築けたり誰か一人で構わないので友人関係を築いていく経験を少しづつ積み重ねていって欲しいと思っています。私たちがいなくても同じ思いの人達と幸せに生きていける子になってくれたら・・・というのが私の願いです。

 

そうした経緯もあって、今年は息子がしっかりと学校に通えている事に安堵していますし、私も先生方に甘えてばかりおらず、しっかりとこの子の自立に向けて課題をクリアしていける様にまた頑張ろうと思っています。

 

ちなみに私の母は弟が幼稚園の頃に強い激痛に見舞われたらしく、どうもその際に死を覚悟したそうです。その時の事を振り返って

「あなたはしっかりしてたからお母さんがいなくても大丈夫だろうと思えたけど、弟はまだまだお父さん一人じゃ無理だと思ったわ。仕方がないから良く懐いている幼稚園の担任の先生に全てをお願いしようと本気で思っていたわよ(笑)。」

なんて思ったそうです。

 

私は古典文学が好きなのであちこちでちょくちょく引用してしまいますが、幼くして親を失う心境としては有名な伊勢物語のシーンを思い出します。その時の在原業平の言葉を借りますと、

『世の中に去らぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため』

(世の中に避けられない別れ(=死別)などなければ良いのに・・・ 千年も生きて欲しいと祈る子の為に。)

※高校生の時に覚えたっきりなので間違っていたらお許しを<(_ _*)>

 

母が他界した当時、私は既に成人しておりましたので業平よりは随分マシな境遇ではありましたが、それでもやはり業平と同じ様な思いに駆られ『自分の寿命を5年あげるから母にあと1年分け与えて下さい』と何度も何度も願ったのでした。結局願いは叶わず・・・当時の心痛は筆舌に尽くしがたく回復するのに何年もかかってしまいました。

あんなに厳しかった母でもやはり私にとって大切な存在であったという事なのです。今でももし生きてくれていたら息子の成長を真っ先に楽しんでくれていたのではないでしょうか。

 

 

だから今はまだ・・・息子に私と同じ思いをさせたくはないですので私も夫もまだまだ頑張らなくちゃいけませんね。そしてそれと同時に母が教えてくれた様に誰かと助け合いながらも自立して生きていける術を一つ一つ丁寧に教えていきたいな・・・、というのが私の育児の根底にある事なのでした。

 

 

生クリームが苦手だった私

※以前書かせていただいた『マイノリティの心の傷』という記事は熟考の上非公開に戻させていただきました。ちょっと批判的な気持ちが強い時期に書いたので息子がまた学校に行けるようになった今となっては誰かを不用意に傷付けてしまうのも心苦しく・・・。といっても同じような境遇の方の気持ちを代わりに伝えたい気持ちもどこかにはございます。だからもしご要望がある様でしたら少し内容を再考した上でUPさせていただこうと思います。

 

今日は閑話休題、という事で私自身が苦手な食べ物を克服していった過去の記憶を少しだけ記録させて下さい。

”嫌いな理由って案外人それぞれだったりするよね?”とか”苦手じゃなくなる時ってある日突然だったりするよね”なんて事を書きたいなと思います。

 

 

唯一克服出来なかったのが・・・生クリームでした

私が苦手だった事なんて本当はどうでも良い事かなと思いますが、大人になると色々な事が簡単に出来る様になってしまい、出来なかった頃の苦しみなんて忘れてしまいがちになってしまうなぁと日々感じています。

 

でも誰しも幼い頃にきっと一つや二つはどうしても避けたい苦手な事ってあったと思うのです。それをどのように乗り越えたのか?或いはうまく折り合いをつけられたのか?どう克服していったか?そんな過程を今日は思い出して記録しておきたいと思います。

 

 

私は食に関しては・・・幼い頃は実はけっこう手がかかったかもしれません。(といっても絶対にウチの息子よりはマシだと思います。あくまでもよくある好き嫌いの程度とお考え下さい。)

 

まず、味覚に関しては幼い頃から好き嫌いなく殆どの食品を好意的にとらえていました。ただし私も息子と同じかもしれませんが食感・・・と言いますか噛み応えの部分で辛かった体験がいくつかあります。

 

 

(1)イカが怖い・・・

まずは食感としてコリコリと感じる食品が好きだった事が逆に仇となってしまった事がありました。

3~4歳の頃に新鮮なコリコリとした食感のイカのお刺身を食べたんですよね。あまりにも美味しかったのでうっかり

「これ大好き!また食べたい。」

と言ってしまい、その後気を良くした母がまさか食感でそんなに好みが異なるとは思わなかったのだとは思いますが、どちらかといえばちょっとねっとりとした品種(もしくは鮮度?)のイカの刺身を買ってくれた事があり、それが妙に喉に詰まりそうな恐怖感から2年ぐらいは食べられなくなった事がありました。

 

まだ歯が小さく、噛み切る事が難しかった思いと、喉に詰まりそうなむせ返る感覚とその際に強く感じる海の独特の香りは今でも記憶に残ってしまっています・・・。

 

ちなみに体が大きくなってしまえばそんな恐怖を感じなくなりました。歯も体も大きくなり、イカが喉につまる感覚にはならないからです。確か小学生の高学年の頃にどちらのイカでも問題なくいただける様になったと記憶しています。

 

 

(2)恐怖の赤身肉・・・

それは幼稚園入園前の4歳頃の記憶です。

朝ごはんに昨晩のカレーが出たんですね。その日のカレーはゴロっとした赤身肉が入っていまして、それが・・・火が入れば入るほど硬くなってしまった様なんです。確か朝食を食べ始めて30分以上経過した朝の8時ごろでもまだ食べていて、

「お母さん、これ食べられないよ・・・。」

と泣きながら訴えたのですが何故か不機嫌な母は

「ダメだよ、食べきらなきゃ昼ご飯も晩御飯も抜き。」

と随分不機嫌な様子でした。*1

 

あまりに恐ろしい母の形相に渋々肉を噛み続け、気付けば夜の20時を超えていました。

 

途中

「無理、こんなの食べられないよ。もっと小さくしてくれれば食べられるから。味は好きだけど、もう噛んでも味がしないから小さくして何か味をつけて欲しい。」

と何度も懇願したのですがダメの一点張り。

 

結局泣きながら21時頃に飲み込み、そのまま泣きつかれて寝てしまいました。

 

書きながら思いましたが、これって今なら軽く虐待かもしれませんね(^^;)

今となれば2歳下の弟とたまに笑い話として話すくらいのネタ的な話になってしまっています。まぁ家族としては良い思い出ですが、結局赤身肉は10歳頃まで苦手な意識がずっとありましたので、私が子育てする時は絶対にこんな事だけばしないでおこうと思えた一件です。

(母としては肉は食べられる様にしてやりたかった思いが強かっただけなのだとは思います。)

 

 

(3)高校生になっても生クリームは苦手なままでした・・・

生クリームかぁ・・・

これが一番食べられる様になるまで時間がかかった食べ物でした(^^;)

 

スープやパン生地などに使われている分には問題なかったのですが、ケーキやパフェのトッピングなどに使われるホイップ状の生クリームが苦手でした。

 

生クリームって、別に食べなくても困りはしないので母親としてもあまり無理強いしませんでしたし、私も積極的に改善にむけて取り組んだ事はありませんでした。

 

確か高校生の頃友人と抹茶パフェを食べに行く事になり、

「生クリームがダメなんだ。誰か食べて?」

と友人達に依頼した記憶があります。

 

その時の会話の中で

「生クリームと植物性のホイップクリーム、どちらも食べられないの?」

と聞かれたので

「(植物性の)ホイップクリームなら食べられるよ。見た目で違いがわかる時は植物性の場合なら食べられるよ。」

(見た目の違いとして生クリームの方が気泡が小さいと言いますか。なめらかな仕上がりの時は生クリームかなと判断していた、という程度です。)

と答えたのですが、

「えー、食べても生クリームもホイップクリームも違いがわからないよ~。」

との返事にみんなで笑い合ったものです。

 

 

で、生クリームですが、結局大人になってから食べられる様になったんですよね。

そもそも生クリームの何が苦手かといえば

”食後に感じる上あごに膜がはりついた様なカバー感”

を感じてしまうからなんです。

(先程の友人との会話の中でもこの理由を話しましたが「え~、そんなのは感じた事がないよ。」とびっくりされてしまいました。)

 

おそらく生クリームの油脂が膜の様に口の中に広がるのかなと思います。それが大人になって解消された理由としては、おそらくケーキ等と一緒にコーヒーや紅茶などの温かい飲み物と一緒にいただく機会が増え、膜が溶けやすくなったからだと思うんです。

 

また、意識的に日常生活に運動を取り入れる様になった事もあり、体温が学生時代に比べれば0.3~0.4度程高くなった事も関係しているかもしれません。

 

不思議なもので一度解決方法がわかればあまり不快感を感じなくなり、今となっては子ども用のケーキ作りなどにも積極的に使える様にまでなりました。

 

 

 

 

という事で本日のまとめですが、何がきっかけで苦手を克服出来るかはわからないものなので、息子に対してもあまり苦手さを追い詰めるよりは時を待つのも良いかもしれないなぁと思って日々接しています、という話しでした。

*1:母の名誉のために追記させていただきますが、もしかしたら母はもうこの頃から死に至る病に侵され始めていたのかもしれません。体調が悪くていつもこうした対応をしていたのかなと今は思います。

安全な基地を見つけた様です。

ちょっとだけ近況のご報告です

本年度に入ってから息子の生き生きとした顔色に安堵する毎日の私ですが、おかげ様でこの4月は息子と一緒に過ごした半年の間に放置した大きな家事やら保育士試験などに精を出す事が出来、あーーーっという間に過ぎてしまいました。

 

こうして安心して学校に送り出せる事って幸せな事なんだなぁとつくづく思います。

 

 

その息子の4月の様子といえば、

”とにかく嬉しそうで仕方がない”

といった様子でした(笑)

 

なぜそんなに嬉しそうなのかと申しますと、

今年の担任の先生との関係がとても良好にある様なのです。

 

 

”先生がボクの事を信じてくれる”

そんな思いを先生から感じ、今度は

”先生の事を信じてもいいんだ!”

と信頼を寄せる事が出来る喜びです。

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無事他者と信頼関係を結べた喜びは息子にとってはとても大きいものに思います。

 

こうして学校では担任の先生という安心できる基地を見つけられた事によって、これまでは逃げ場を探し続けてしまっていた学校での過ごし方とはまた違った経験を積み重ねていけるんじゃないかなと思っています。

 

 

そうですね、とりわけ今は”他者の気持ち””周囲の人からどの様に見られているか?”といった部分が非常に伸びている様に感じられます。

2017年を振り返って

お正月頃にUPしたかった下書きメモ的なものを備忘録として残させて下さい。

こうした話し言葉の変化ですとか興味の変遷を記録しておくと後々成長を振り返る時に案外参考になる事が多いなぁと個人的には思っておりますが、いささか超個人的な事すぎてUPする必要性があるのかないのか・・・悩ましい限りではございます(^^;)

 

新しい事への興味

・恐竜→絶滅動物→石器時代へ興味が移行していきました。(最終的にはまた絶滅動物へ戻り、そこから更に2歳代にハマった深海生物等へまた興味を持ち始めた様です。)

・歴史への興味→まんがで書かれた歴史本を読むように。

・漢字や言葉への理解が深まり、同音異義語に気付く→辞書をひくようになる。

・独楽(回るもの)への興味→ハンドスピナーベイブレードにハマる。

ドラゴンボールベイブレードのアニメをよく見る様になり、より人物への興味や共感などが強まった時期でした。

 

幼い頃はミニカーや電車、天体や文字といった事が好きだったのですが、今年は大きく興味の幅が変化したな~と思う年でした。 

 

とはいえ特性上初めての事が苦手なウチの子ですが、学校生活ではそちらの面が色濃く出た一年でもありました。

 

 

語尾の変化

・お父さん〇〇だしね~

〇〇なんじゃない?(〇〇した方がいいんじゃない?)

・ほら、言ったでしょ?

 

学校を休んでいた間にこんな言葉の変化がみられました。反語や語尾の疑問符を上手に使える様になってきました。

 

 

反語の聞き取りと拒否を伝えるのが苦手

しかし一方で、反語を聞き取るのが苦手だという事が顕在化してきました。いわゆる”反語がわからない”というあるあるです。

 

ホントに良くある話なのですが、例えば

「寒くない?」

 と私が問いかけたのに対して息子はほとんど無反応な場合が多いのです。そこで昨シーズンあたりからは

「寒いですか?寒くないですか?」

と無反応な場合は改めて聞く様にしてきたんですね。

 

それを踏まえてつい先日、少し言語理解が進んできた様子がみられるので息子にこんな事を聞いてみました。

「あのね、『寒くない?』って聞く時は最後に”?”クエスチョンマークがついているんだけどわかってた?」

と聞くと

「!?」

ニヤリとしつつも絶句してました。そこで

「もしかして『寒くないよね』っていう風にお母さんの気持ちを言っているのだと思ってた?」

と改めて聞くと

「うん。そう思ってた。だから『本当は寒いのに違うって言いにくいなぁ』と・・・。」

 

この様に相手に同調する事が難しい場合に自分の気持ちを正直に相手に伝える事が難しいという面が

 

新たなチック?

・お腹を指はじきする

 

 

 

ざっとまとめたのですが、抜けがあれば随時追記予定です。

面妖な事 ~サリーとアンの課題にて~

今日はちょっと軽めの我が家の日常をご紹介します。

 

今年度に入り毎日楽しく学校に通うウチの息子くん。

 

そんな息子の帰宅後のお楽しみ用に日々何か仕掛けを用意して待つ私ですが、そんな仕掛けの一つに”サリーとアンの課題”がありました。

 

”サリーとアンの課題”とは『心の理論』の発達状態を確認する質問なのですが、その『心の理論』とはWikipediaの言葉をお借りすると

”ヒトや類人猿などが、他者のの状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。”(心の理論 - Wikipediaより)

との事なんですね。

 

つまり対人関係においてとても重要な能力であり、(相手に共感できるかどうかは別として)相手の状況を理解する事が出来るかどうかといった能力かなと思っています。

 

で、その課題ですが先述のWikipediaにもあります様に実はいくつか種類かあります。その中でも今回は何度も実施した事がある”サリーとアンの課題”を文章で提示してみる事にしました。

 

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※↑最初に手書きした状態の写真を撮り忘れたので、わかりやすくご提示する為にこの後修正した部分をパソコン上で少し修正させて頂いております。不自然感がありますがご了承下さい。

 

というのもこの課題、今までは4~5歳代でも何度かトライしているのですがその際はイラストや言葉を使って説明してきました。

 

なので今回はあえて上記の様に文章にしてみました。

 

 

「今日はこんなクイズを準備しておいたよ。」

と息子に見せてみると、1分弱は眺めておりましたがその後無言に。

「どう?わかった?」

と聞いてみると

「こんなのわかんないよ。」

と全然興味がなさそうでした(^^;)

 

なので念のため

「じゃあ、こうしてみたらどうかしら?」

と名前の部分を日本人に馴染みやすい「太郎」と「花子」にその場で書き換えたところ

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「なんだ、簡単じゃん!絶対にカゴを見るよ。」

と文章を1秒ほどで読み終え即答していました。

 

確かに超がつく速読派なんですが・・・あまりに回答が速すぎたので

「なんで太郎くんはカゴを見ると思ったの?」

と念のため理由を聞いてみると

「だって太郎が片付けたのはカゴでしょ?自分で片付けたところから見るでしょ、普通。」

と自分が考えた理由をしっかりと答えていました。

 

 

うぅむ・・・。

この手の質問って

・イラスト/文章

・言葉で説明

・その国に馴染みのある人物像や背景であるか?

 

こうした要因も回答出来るかどうかにかかわるんだなぁと勉強させられました。

 

それぞれ個人個人で得意な情報の得方や処理方法がありますよね、いかに相手に伝わる様に伝えるかが大切なんだなぁ、と子どもの理解の仕方を通じて自分の発信方法に気を配る良い気付きになりました。

 

 

 

 

【追記】(2018/05/11)

※後日イラスト版も試してみました。↓

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 こちらは口頭で30秒程の説明を加えながら④のイラストを見終わった時点で

「Aさんが最初にボールを探すのはどこからでしょうか?」

と聞いたところ

「もちろんカゴだよ。人間てのはまずは自分が片付けた所から探す習性があるよね。」

と理屈を述べておりました(^^;)

 

イラスト版でも一応クリアできたようです。 

『連れてきてしまった』という思い 『連れていけなかった』という思い

 

昨日の記事(通えるようになりました<(_ _*)>)でようやく学校に通い始めた事をご報告させていただきましたが、息子が不登校だったこの半年程の間で私がずっと囚われてしまった考えについて記録しておきたい事を残させて下さい。


 

『連れてきてしまった』という思い

小1の息子の不登校が続く中、日増しに強くなる自虐的な考えがありました。

特に新学年が始まる直前にはピークへと達してしまったその思いとは、

 

『私が息子を無理矢理ここまで連れてきてしまったのでは・・・。』

 

という強い後悔と自責の念でした。

 

約1年前に引っ越し先を探す中で今住んでいる地域の事を良く調べもせず選んでしまったのも自分、本人が早生まれであるという事もあってまだまだ伸びしろもあるだろうと普通級しか考慮しなかったのも自分*1

 

そして何よりも

『私自身が躍起になりすぎて、息子を本来自然に伸びるはずの成長以上に伸ばそうとしてしまったのでは・・・?』

『そうした家庭療育を後先考えずに進めてしまったのも自分なのだ』

という思いです。

 

 

 

これまでは

『ここまでの成長は息子が本来持てる力をもって自然のままに成長した結果と、プレや幼稚園、作業療法や習い事といった形で関わって下さった方々のお力やお助けがあって今この場所にいるんだ』

と思っておりました。

 

なのに当時の私は相当参っていたのでしょうね。

随分おこがましい考えをしてしまっていたのです。

『自分がちょっと頑張りすぎて息子をここまで引き上げてしまった、連れてきてしまった。』

と。

 

未就学の頃、家庭療育だの発達についての独学だのと自分が頑張りすぎてしまい、うっかり息子が普通学級に入学出来てしまう程に成長させすぎてしまったのではないか・・・と。

 

 

2歳半頃に受けた発達検査では平均でDQ85。

だからもしその時に気付かぬふりをしてそのまま発達を促す事なく過ごしていたら、ひょっとしたら今頃息子は支援級で穏やかに過ごせていたのかもしれない・・・なんてこれまでの周囲の方や息子の努力を全て否定するような悲観的な考えをついついしてしまいます。

 

努力・・・なんか・・・しなければ良かったのかもしれません。

(過去のブログを見てもし頑張ろうと思って下さった方がいらっしゃいましたらすみません。本当は努力すれば報われると申したい気持ちなのですが、今は安易にそう言えなくて本当に申し訳ございません。)

 

 

特に子どもが2年生になる直前、

どこにも私たち親子の居場所が無い様な気持ちに駆られ・・・頭の中は上記の様な思いでいっぱいでした。

 

 

 

真逆の『連れていけなかった』という思い

しかし一方で、もし自分の家庭療育にある程度の効果があったとするならば・・・と考えると・・・もっともっと強く自分を責めざるを得ませんでした。

 

つまり、もっと私が頑張っていたら、引っ越しなんかせず息子の成長をもっともっと促す事だけに専心していれば・・・少しも手を抜いていなければ・・・

 

今頃もしかすると学校で辛い思いなんかしていなかったんじゃないか?

 

という考えに至る訳です。

 

 

少し考えこんでしまうとこの様な自罰的な考えから脱却出来なかったので、息子とただ坦々と毎日を過ごす様にしておりました。

 

 

 

 

 

お母さんに操られている!

まぁ、そんな親の心を見透かすかの様なタイミングで少し面白い出来事が起こりました。

 

ちょっと車の往来が激しい道路を歩いていた時、あまり深く考えず反射的に少し手を無理矢理繋いでしまった時の事でした。

息子がふいに

「お母さんがボクの事を操っている!操られているよ!」

と怒りをあらわに手を振り払いました。

 

あまりにも唐突でしたので思わず 

「もう、危ないからよ!」

と言ってしまったのですが、でも心のどこか安堵してしまいました。

 

『あぁ、この子もそんな風に感じられるし、それを言葉にして表現出来る様になってきたんだなぁ。』

って素直に嬉しくなりました。

 

誰かに言われた通りに進むのではなく、自分で考えて行動出来る人間になって欲しいという目標を掲げてここまで参りましたのでこうした事を不快に思う事はとても大事な事だと思うんです。

夫や私がいなくなっても、善悪や是非を自分で考え、自分で選択し、自分で歩んで行ける様になって欲しい。

 

その為にはまだしばらくの間は価値観や善悪といった部分を一緒に考えてみたり、どうしたら良いのか?といった判断を自分で考えていける様な心の核の部分をゆっくり育んでいけたらいいなと思っています。

 

 

 

変わらずにいてくれた人達*2

※少し書き漏れた事がありましたので後日追記させていただきます。

こうした大変苦しい大きな波に襲われた我が家でしたが、そんな時でもいつもと変わらずに接してくれた方々が何人かいらっしゃいました。

 

大変な時にあえて必要以上の同情をする訳でもなく、かといって辛い気持ちや心情はそっと汲みとり、無理強いはせず時が過ぎるのを一緒に見守ってくれた人達の存在があったからこそ今の我が家がある様に思います。

 

ちょうど先日の冬季オリンピックでスピードスケートの小平奈緒選手が金メダルを獲得した時の会見で

「良い時も悪い時も私を認めて下さる皆さんが周りにいたから。」

という内容の言葉を口にされた事があったのですが、

その通りだなぁとつくづく痛感しました。

 

こうした苦難の時に寄り添ってくれた方々の事はこれからも大切にしていきたいなと思った次第です。

*1:我が家の住んでおります地域ではDQの数値で普通級/支援級の判定がなされる為、自閉度の高さはその判断には使われない様なんですね。だからこの時に仮に支援級への進学を希望していたとしても適わなかった可能性の方が大きいのですが、今から振り返ってみれば『インクルージブ教育が行き届いた地域で、普通級でもある程度の配慮がなされるのかな?』等と随分のんびりとこちらの都合に良い様な勝手な思い込みをしていた様に思います。

*2:2018/05/07追記分