自己肯定感を育てる必要性。過不足のない自信へ ―中編―
晩夏にみた夢
夏休みの終わりごろから、私は何度か同じ夢を見るようになりました。
それは母との昔の出来事でした。
※白い彼岸花でしょうか。珍しくて思わずパシャリとしてしまいました。花言葉は「また会う日を楽しみに」だそうです。
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私が小学5年生頃の事です。
学校で先生と母との保護者面談が終わった直後頃だったと思います。
「ねぇ、あなた〇〇教育大附属の中学校を受験してみたら?」
と母が言い出したのです。
当時はまだまだ中学受験がさかんではない時代で、ごくごく限られた裕福な家庭や本当に飛びぬけた才能のお子さんだけが受験する様な時代でした。
だから最初に言われた時は
「普通の一般家庭に育った私が受験?え、冗談だよね?」
と返しました。そんな私でしたが、〇〇教育大附属といえば地域のトップクラス・・・という事だけは知っていました。
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こちらの地域では小学校の通知表は3段階評価なのですが、当時の私はほとんどの教科が「よくできる」ばかりだった事やテストでもほとんど満点しかとらなかった子でした。(自慢じゃないですョ、多分多くの方と変わらないと思います。)
絵画展や作品展があれば出品される事も多く、毎年賞状やメダルをいただいておりました。(それが今じゃただの凡人です、何の芽も出ませんでした(>_<))
そんな状態でしたので母は何かの拍子に受験を思いついたのでしょうかねぇ・・・?それとも学級委員や〇〇委員長をする事が多かったのでそんな発想に至ったのでしょうか。
母が亡くなった今となってはその理由を知る事は出来ませんが、とにかくそれからしばらくの間母の受験熱が続く事になりました。
私自身は正直うんざりでした。
せっかくできた友達と離れるのも嫌でしたし、当時は病的に朝起きる事が苦手だったので*1わざわざ遠くの学校へ通わなくてはいけないのが嫌だと言い続け、結局受験を回避したのでした。
自分を大切に出来なかった
でも本当の理由は自信が無かったからです。
良い通知表を持ち帰っても褒めてもらった事など一度もありませんでしたし、いくらテストで100点をとろうとも
「上には上がいるだろう。それぐらいで何を満足しているんだ?」
と両親ともに厳しい言葉しか返してくれませんでした。
いくらたくさん賞状をいただいても、全国でも上位の賞をとっても、結局褒めてもらえた事は一度もありませんでした。
「自分の為にやったんでしょ?他人に褒めてもらう為に努力した訳じゃないでしょ? 」
と。
これはもっと成長してから聞いた事ですが、天狗になって欲しくない一心で出る杭を打つかの如く私の自尊心を潰し続けたそうです。
そりゃ・・・高校生にもなっていればそうかもしれませんが、まだ小学生だった頃は褒めて欲しい気持ちを寂しく我慢するしかありませんでした。
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それに対して2歳下の弟は・・・いつも通知表に「がんばろう」がほとんど(というよりも「がんばろう」しかない)という大変な子でした(^^;)
弟が2年生の時、思わず母に
「この通知表どうなってるの!?」
と聞いてしまい
「しっ!言っちゃダメでしょ。本人は精一杯頑張っているんだから。」
と口にする事さえもはばかられる程ひどいものでした。
だからたまに「ふつう」があると両親共に大喜び。
私も褒めちぎっていました。懐かしいです。
けれど正直心の奥底ではどこかで羨ましい気持ちがあった様に思います。
”弟は男の子だから褒められるのかな。
私はどんなに頑張ったって、どんなに結果を出したって褒めてもらえないのは・・・可愛くないからなのかな。”
ずっとそう思っていました。
そして今でもそう思っています。
確かに私は意固地で気が強く、時には大人を言い負かす程口が達者で、全然可愛げのない子どもでした。
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弟の通知表を見るまでは、成績なんてみんな「よくできる」がデフォルトだと思い、教科書を読めばテストは100点とれるものだと思い込んでいた私ですが、母も何となく同じ事を感じた様でした。
弟が学校に慣れた2~3年生になっても、一向に成績が上がらなかったんです。
何も手をかけなくても点数がとれる私と、どれだけ手をかけてもまともな成績にならない弟。
そうした日々の実感が母の私への受験熱に繋がったのだろうと思います。
しかし母の思いとは裏腹に、自分を信じる事が出来ない私は”受験なんてどうせ受かる訳ない・・・”と思い挑戦する事を拒んだのでした。
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ちなみに学級委員などを引き受けた理由ですが、当時推薦して下さった先生方や今もまじめに委員会活動などに取り組んでいるお子さん達には大変失礼な動機だとは思うのですが・・・当時は自己犠牲的な気持ちが大きかったです。
あの頃は自分の事を大切にする気持ちを育む事が出来ず、私自身は社会にとって何の役にも立たない人間だとしか思えていませんでした。だからせめてみんなが嫌がる美化委員長だとか学級委員をやっていた様な気がします。*2
こうして自己犠牲の様な事を考える思考へとどんどん進んでいってしまいました。
しかし物事は皮肉にも真逆に進んでいってしまうものなのかもしれませんね。
委員会活動の事や成績が上位だった事で周囲から優等生のように扱われてしまう精神的な負担は大変大きく、綺麗な話ではなくて恐縮ですが、常に過敏性腸症候群を抱え込み・・・お通じは10日に一度あるかどうか、しかも強烈な腹痛を伴い大変苦しむ事になりました。
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親になってわかった事ですが、もし息子が同じ様な事で苦しむなら・・・無理に誰かの役に立つ生き方なんかをしなくても良いと思うんです。精一杯自分の好きな事を見つけて自立して生きてくれれば、そこに何かの希望を感じて下さる方もいらっしゃるかも?と思うんです。それこそがきっと社会貢献になるんじゃないかな、なんて受け止め方をしています。
それに成績だって今の成績が全てではないですから。
小学生の間に家庭で身につけさせてやりたいなと思っている事って、
- 早寝早起きをして太陽光を浴びる
- 毎食おいしく食べる
- 歯磨きや排泄の習慣
- お風呂
- 立つ・歩く・座るの正しい姿勢
案外こんな程度なんですよね。健康な生活スタイルを確立すればあとは自分で好きな事を貫き通す事が出来ると思うんです。
私が当時ここまで思いつめたのは思春期だったからかもしれないし、こうした生活習慣が身についていなかった影響もあるかもしれませんね。
後悔先に立たず
親の思いを無下にした私でしたが、実際に中学へ進学してみるとすぐに後悔の嵐でした(T_T)
友人たちも何だか大人びてしまい、男女の面倒なあれやこれやが始まってしまうのです・・・。
色めき立つ周囲に『私はそうした事に興味がないから敵意を向けないで!』と示す事に大変な労力を使い果たしてしまい、学業はどこへ・・・と途方に暮れる毎日。
そして日常的な先輩後輩のあれこれ。
あとはクラブ活動でのレギュラー争い・・・うっかり1年生で2~3年生を差し置いてレギュラーになった日にはもう・・・学校に行くのが地獄の様な苦しみで、毎日毎日泣き暮らす事になってしまいました。
本当に面倒でした。
troublesome・・・troublesome・・・
いつしか出る杭にならない様に、クラブも一年生の夏休みには退部し成績も活動もあまり派手にならない様に自分を抑えて生きる様になってしまいました。
”あの時、お母さんの言う通り受験しておけばこんな事にならなかったのかしら・・・”
後々何度も何度もこうした後悔を繰り返す事となり、中学校生活はただただ苦痛な時間を過ごす事となりました。*3
女子高パラダイスw
絶望の3年間を終え、高校は私学の女子高を選びました。
特待生として学費を一部免除していただけた事や文系に特化した学習スタイルが何だか楽しそうだったので親に無理を言ってお願いしたんです。
はい、ぶっちゃけここは奇人変人のパラダイスで、近隣他府県のかなり尖った才能の持ち主が集まる高校でした(笑)
私はここでようやく自分が特殊な人間ではなく、ただの凡人として生きていく事が出来る様になったのでした。
まるで五味太郎さんの絵本
「きんぎょがにげた」
で最後にもう逃げなくて済む瞬間が来たのと同じで、同じ仲間たちに合流し、もう自分を隠して生きていかなくても良くなったのです。
まさに地獄から天国でした。